劇評プログラム

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●実施日時 11月11日(土) 16:00~18:00 
●会 場  東京芸術劇場内の施設(お申込み後に詳細をご連絡いたします) 
●定 員   12名 ※先着順 ※対象作品を観劇(プログラムと同日でなくても可)した高校生・学生  ※一般の方もオブザーバーとして参加可能  ●参加料  無料  【申込み】 申込みは、こちら から  ※要事前申込み
または、電話:03-3478-2189 メール:info#hs-theatrereview-gp.jp(#は半角の@に置き換えてください) 高校生劇評グランプリ運営事務局 お問い合わせフォーム のいずれかに、下記内容をお知らせください。  <件名>11/11観劇カフェ申込  ①『One Green Bottle』観劇日時 ※チケットはご自身でご用意ください ②氏名(ふりがな)  ③「学年」または一般の方は「一般」 ④連絡先電話番号、メールアドレスプログラム概要2010年9月、18代目中村勘三郎さんと野田秀樹さんが夫婦を演じて話題を呼んだ『表に出ろいっ!』が、英語作品となって甦る”One Green Bottle”。 イギリスの名優を迎えての英語上演ですが、キャサリン・ハンターさんが演じる「父」を大竹しのぶさん、グリン・プリチャードさんが演じる「娘」を阿部サダヲさん、野田さんが英語で演じる「母」を野田さん自身が日本語に吹替えます。未知なる衝撃に満ちたこの公演を見た後、ファシリテーターの藤原顕太さんの案内で、感じたことや想像したことをゆっくりと気楽に語り合ってみませんか?作品の背景 や演劇の知識がなくても大丈夫!他の人たちと話すといろいろな発見があり、作品をより楽しめる機会となるでしょう。 ◎『One Green Bottle』特設サイト 藤原顕太(ふじわら・けんた)さん

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●実施日時 10月28日(土) 16:00~18:00●会 場  東京芸術劇場内の施設(お申込み後に詳細をご連絡いたします)●定 員   12名 ※先着順 ※対象作品を観劇(プログラムと同日でなくても可)した高校生・学生 ※一般の方のオブザーバー参加は申込みを締め切りました●参加料  無料【申込み】 申込みは、こちら  から   ※要事前申込みまたは、電話:03-3478-2189 メール:info#hs-theatrereview-gp.jp(#は半角の@に置き換えてください) 高校生劇評グランプリ運営事務局 お問い合わせフォーム のいずれかに、下記内容をお知らせください。   <件名>10/28ワークショップ申込  ①『リチャード三世』観劇日時 ※チケットはご自身でご用意ください②氏名(ふりがな) ③学年④連絡先電話番号、メールアドレス※お申込み時にいただく個人情報は、本プログラムのお申込み以外の目的には使用いたしません。プログラム概要シェイクスピア全作中、最も胸躍るピカレスク(悪漢)ロマン『リチャード三世』。 ルーマニアの鬼才プルカレーテがほぼオールメールの日本人キャストを初演出し、シェイクスピアの極悪ヒーローに、佐々木蔵之介が挑む、話題沸騰のこの作品の劇評を書いてみませんか。 といっても、2時間のワークショップの中で書いてみるのではなく、事前に提出していただいたみなさんの劇評をもとに意見を交換し、劇評とはなにか、どう書けばいいのかという糸口を見つけるワークショップです。 自分で書くのはまだちょっと……という人も、気軽に参加してください。進行役は『リチャード三世』の演出補を務めた谷賢一さんとワンダーランド代表の北嶋孝さん。プロダクションの側からの劇評に対する意見を聞くことができる貴重な機会です。 劇評を書いてみたいと思っている人、『リチャード三世』のことをもっと知りたい人は是非ご参加ください。  ◎『リチャード三世』特設サイト 劇評募集中!!当日の題材となる劇評(1,000字以内)を書いてみませんか ? 提出期限は10月25日(水)です。ワークショップお申込み時に「劇評書きます」と書き添えてください。谷賢一(たに・けんいち)さん

『リチャード三世』劇評 飯嶋佳保

 舞台中央に手術室を思わせるドーム型の照明が吊り下げられており、舞台三方にロンドン塔の壁を彷彿とさせる布が吊られている。布は時折上下に動き、その動きは次第に血を思わせた。装置から漂う不気味で退廃的な雰囲気を相殺するような激しい音楽に合わせて人々が踊り、酒を飲んでいる。賑やかというよりも騒々しい幕開きに度肝を抜かれた。喧騒の中からリチャード(佐々木蔵之介)が姿を現し、その直後に赤い鼻と鬘を身につけ、道化に扮装する。通常リチャードは傴僂で醜い人物として描かれるが、今回、幕開きではそのような身体的素振りは全く見られず、何より颯爽として美しく魅力的に登場する。彼が周囲を欺くために道化を演じ傴僂を装うという解釈が最初に提示されたのだ。冒頭の喧騒から一転、荘厳で緊迫した雰囲気の中、物語が進んで行く。  次に演出家シルヴィウ・プルカレーテの描く世界観を三つの要素から探っていく。
第一に「音」。サックスの生演奏は明るくも寂しげな印象を与え、不穏な金属音が度々緊張感を煽り、マイクや拡声器による声は異化効果をもたらす。特筆すべきは終盤、リチャードが亡霊に苛まれる場面。「この世に思いを絶って死ね」という台詞が歌になり、ミュージカル要素を取り入れながら犠牲になった人物が総出で歌い上げる。いずれも「音」が観客を先導していた。
第二に「具体性」。例えば処刑の場面では、浴槽にその場で水が張られ、水に沈めるところまで見せた。処刑後には生首まで出てくる。またリチャードが王位に就きビニールに覆われた玉座と交わる場面は寓意に満ちながらも直接的で、他にも観客が出来事を体験できるような仕掛けに溢れていた。
最後に「ユーモア」。残酷なドラマ展開にも関わらず笑える場面が多かった。古典的な笑いからブラックユーモアまで多岐に渡り、観客を退屈させない工夫が随所に見られた。
これらの三要素が相補的に絡み合う世界観にいつしか観客は虜になっているのだ。  今回、ヨーク夫人(壌晴彦)、マーガレット(今井朋彦)、アン夫人(手塚とおる)、エリザベス(植本純米)の四人の女性の役を男性の俳優が演じた。彼らの艶かしい倒錯美や低く響く声色によって、計り知れない野心や狂気、屈折した愛憎が描かれた『リチャード三世』の魅力を底上げしていた。  斬新な解釈や発想は物語や心情を追いにくくする。しかし、このカンパニーの作品に対する真摯さがその一般論を崩壊させていた。  

『リチャード三世』劇評 上鹿渡大希

 シェイクスピア作品では様々な魅力的な人物が描かれ、ハムレットなどといった不完全な主人公が描かれるピカレスク小説も少なくない。その中でもこの『リチャード三世』という作品は極悪卑劣で醜い容姿の持ち主が、狂気的に殺人を繰り返す様が描かれる。 『リチャード三世』の原作では、リチャードの独白で「これから悪党として生きる」ということが冒頭で告げられ、その後も悪事を起こす前にその計画についての独白が続く。この型を作ることで読み手、観客がリチャードの味方、共犯のような気持ちになるのだ。しかし今回プルカレーテ演出『リチャード三世』の冒頭では、バーのようなセットを囲んで男たちが歓声をあげる中、独白でなく演説のような形で「悪党になる」という宣言がされる。ゆえに観客が彼の共犯という意識はさせられず、観客は終始舞台を客観視しなければいけない。全ての役者が顔を白く塗っていたこと、私たち観客が納得する前に物語が進んで行くスピードなどもこの作品に主観的な気持ちを入れる隙間を与えなかった。そのため作品終盤のリチャードが王座を愛撫するシーンでも彼の感情を理解することは出来ない。ただただ不気味な生物、理解不能な狂人としてのリチャードがそこにいた。観客をも味方につけないリチャードの姿は、彼の孤立していく姿をより克明にさせ、原作に対してアンチテーゼ的演出にも関わらず、実は原作に忠実な演出法であったのだと感じる。 またこの作品は音のリズムにこだわっていることがよくわかる。シェイクスピアの戯曲は弱強五歩格というリズムで書かれているため日本語訳にするとそのリズムは失われてしまう。しかし今回の『リチャード三世』は舞台上にサックス奏者を配置することで作品に流暢さが現れ、多少なりとも作品のリズムを感じることができた。さらにリチャードに殺された亡霊たちは「この世に思いを立って死ね」という4拍のリズムで歌い、ミュージカル仕立ての演出もある。一方でゾッとするような金属音を効果的に使うことによってリズムを断ち切り、ストーリーが流れてしまうことを抑えていた。  いきなりのミュージカルシーン、登場人物の不在、残酷な殺人シーン、ほぼオールメールキャスト、結末の違いといったこの異彩を放つ演出は原作を知らない人はもちろん、原作を読んでいたとしても迷子にさせられ、道化リチャードに踊らされているかのようである。 

『リチャード三世』劇評 黒田藍子

 2017年10月18日から、ウィリアム・シェイクスピアの史劇作品、『リチャード三世』が東京芸術劇場・プレイハウスで上演中である。ルーマニアの巨匠シルヴィウ・プルカレーテが演出を手掛け、佐々木蔵之介が主演を務める話題作だ。『リチャード三世』の舞台は15世紀のイングランド。ランカスター家とヨーク家の王位を巡る<薔薇戦争>が続く中、王位簒奪の野望を抱くリチャードは、忠臣と共に次々と政敵を葬り去っていく。その果てにリチャードはついに王位を手にするが……。 重い金属同士が強く擦りあわされるような轟音と共に幕が上がると、天井の高い舞台は重苦しい緑がかった照明で満たされていた。激しいリズムが鳴り響き、その中で踊り跳ね回る人々、喧騒と狂乱の中、道化の仮装をしたリチャード―彼は自身をいびつで未完成、半出来のままこの世に生まれたという―は「この巧言令色の御時世を泳いで回る好き者にはおれはなれんのだからして、おれは決めた。悪党になる。」と誓う。佐々木が演じるリチャードが舞台中を動きまわる姿はまるで「死神」、常に不気味で不穏なオーラをまとっている。このリチャード、敵も味方も肉親でさえも一切の躊躇いなく殺す「残虐非道」な男である。王位を狙う中で、周りの人間への疑心暗鬼が加速するとともに、その冷酷さも増していく。それだからこそ終盤でのリチャードの「絶望だ。愛してくれる者は一人もいない。」という言葉には一瞬耳を疑うと同時に、ひどく納得せざるを得なかった。周りを突き放したような彼の独善的な凶行は、愛されない絶望感と強烈なコントラストをなしていたのだ。残忍さと孤独ゆえの繊細さを併せ持つリチャードはコロリコロリと様々な顔を見せる。子供の機嫌をとるために、彼らを背中に乗せ床を四つん這いしたかと思えば、執着し続けた王位のシンボル―王座と艶めかしくまぐわうように、その上で息も絶え絶えに悶える……時にチャーミング、時にエロチックで目を離すことができない。 プルカレーテが構築した『リチャード三世』の世界。五感に迫ってくるような暴力的なまでのグロテスクさが押し出されるが、そこに垣間見えるポップな要素がスパイスとして効果的に機能している。殺し屋たちは精肉店員に扮し、政敵たちはビニール袋を被せられてあの世に送られ、そして亡霊たちによる悪夢のミュージカル……儚くも美しく、残酷なのにユーモラス、まさに「プルカレーテのリチャード三世」である。

飛翔、残酷な美の世界へ 小林礼奈

 王侯の栄誉といってもただ肩書きだけだ。外に名誉を誇るほど内に悩みを持つ。虚ろな栄誉はあっても現実は山なす心労なのだ。貴族と平民の間には見せかけの名声のほか、何の違いもないのだ。(木下順二訳『リチャード三世』1の4)  権力のためには実の兄さえ殺める。強烈な悪役を主人公に据えた『リチャード三世』をルーマニアの鬼才プルカレーテはほぼオールメールの日本人俳優を使い甘美に演出した。 幕が開いた瞬間からビートを刻む音楽と宴会の狂乱の中のテンションの高さに度肝を抜かれる。特に冒頭の独白をリチャードにマイクを持たせ、宴会の流れの中の仲間内の戯れのように見せた大胆な戯曲の読みと演出を冒頭に持ってきたことはこれから起こることへの大きな前振りとして観客に印象深く映る。ただシンプルな舞台装置とモノトーンを基調とした衣装により、登場人物の判別がつきづらく、最低限の登場人物はある程度知っていることが必要かもしれない。しかし、圧倒的な演劇の力と、悪に手を染めて王座を獲得するリチャードの強烈なキャラクター性はむしろ際立ち、特に二幕に入ってからは舞台装置、小道具、衣装、音楽、役者が融合して引き締まった舞台になった。  主役、リチャード三世を演じた佐々木蔵之介は持ち前の端正さを生かし、大悪党でも小悪党でもなく、その間を泳ぐことにより多彩な面を見せる。特に二幕、王座を愛撫する場面に象徴されるようにリチャードはエロスの権化として性と死をもって権力を掌握していく。足の悪さをハイヒールとブーツで表現する大胆な読み替え、ころころと変わる声色は観客を弄ぶかのように魅力的だ。暴力的なまでの美しさは「外の名誉」「虚ろな名誉」となり、「山なす心労」へのカタルシスを許さない。悪に魅せられたリチャードに観客が魅せられることで、舞台全体が権力への甘美な誘惑にしがみつく人間の愚かさを逆説的に喚起させることとなった。  リチャードの妻となるアン夫人役の手塚とおる、エリザベス役の植本純米、マーガレット役の今井司朋彦の芸達者ぶりも光った。特に第一幕第二場、リチャードがアン夫人を誘惑する場面では緊迫感の中に色気が漂い、張りのある場面になっていた。そして性愛の力学もまた、人間の暗部への導入となるのだ。 

『リチャード三世』劇評 那須野綾音

この舞台は、日本の政治裏を観ているようであった。第三者は劇化したその姿を前に、距離を感じる反面、見てはいけないものを覗いた興奮を持つ。 
席に着くと、不安が過った。
シェイクスピアは偉大な詩人であるからこそ、脚本を日本語訳するのはなかなか難しい。訳されたものは綺麗な言葉に気を取られ、リズムを崩されることが多い。その為、言葉が観客の内に入りにくくなることを何度か経験した。
そして演出家のシルヴィウ・プルカレーテと佐々木蔵之介を代表とする日本の役者たちはどう来るか予想がつかない。 
あ、始まった。というタイミングで、作品に「洒落くせえ、黙って観てろ!」と怒鳴られたようだった。耳にはサックス音、目には大きな照明に群がり踊る男たちが入る。少し離れたところに召し使いがいることによって、現実味があり空間に惹かれた。すると佐々木蔵之介演じるグロスタ公リチャードが喋る。私が経験してきた緩いシェイクスピアとは離れていた。既に曲に乗っており、文章を区切って話す為、台詞に嫌悪感が見当たらない。驚いた間に、彼の欲望に塗れた声が包み込む。それは気味悪い宴(作品)の乾杯の音頭である。 
プログラムされたように見やすい演出は、大道具を一つ一つ印象付かせる。特に、電車又はエレベーターのような、ドア付きの箱が面白かった。休憩後、トップに出てくる大道具であり、奥には傘の先が見える。世界は歪み、大人数を見せなくても圧を想像させられる。この道具の大きな見せ場はミュージカルのシーンだ。死者が棺桶にも見える箱から出てきて、リチャードを弄ぶ。私は突然始まったこのミュージカルに「?!?!?!…寺山修司かッ!!」とショートしかけた。危ない。
しかし、そこから日本が持つ空気感(優柔不断、シャイ、従順等の曖昧な何かしら)を感じられなかった。プルカレーテの演出は日本でやるから斬新と捉えられるのかと疑問を持った。この作品の一番の遊び(皮肉)はやはり、ビニール袋に包まれ、王冠を手にする場面である。人が作った物に身動き取れなくなる様が見せしめでありつつ、私の脳内に仮想のNEWSが流れさせた。盲目になった国民の代表、国民たち。向かう先は身動きが取れない恐怖の中。何が本当の幸せなのだろう。自分は音楽の波に乗せられながら、いつの間にか予想図の世界に打ち上げられていた。