『リチャード三世』劇評 上鹿渡大希

 シェイクスピア作品では様々な魅力的な人物が描かれ、ハムレットなどといった不完全な主人公が描かれるピカレスク小説も少なくない。その中でもこの『リチャード三世』という作品は極悪卑劣で醜い容姿の持ち主が、狂気的に殺人を繰り返す様が描かれる。

 『リチャード三世』の原作では、リチャードの独白で「これから悪党として生きる」ということが冒頭で告げられ、その後も悪事を起こす前にその計画についての独白が続く。この型を作ることで読み手、観客がリチャードの味方、共犯のような気持ちになるのだ。しかし今回プルカレーテ演出『リチャード三世』の冒頭では、バーのようなセットを囲んで男たちが歓声をあげる中、独白でなく演説のような形で「悪党になる」という宣言がされる。ゆえに観客が彼の共犯という意識はさせられず、観客は終始舞台を客観視しなければいけない。全ての役者が顔を白く塗っていたこと、私たち観客が納得する前に物語が進んで行くスピードなどもこの作品に主観的な気持ちを入れる隙間を与えなかった。そのため作品終盤のリチャードが王座を愛撫するシーンでも彼の感情を理解することは出来ない。ただただ不気味な生物、理解不能な狂人としてのリチャードがそこにいた。観客をも味方につけないリチャードの姿は、彼の孤立していく姿をより克明にさせ、原作に対してアンチテーゼ的演出にも関わらず、実は原作に忠実な演出法であったのだと感じる。

 またこの作品は音のリズムにこだわっていることがよくわかる。シェイクスピアの戯曲は弱強五歩格というリズムで書かれているため日本語訳にするとそのリズムは失われてしまう。しかし今回の『リチャード三世』は舞台上にサックス奏者を配置することで作品に流暢さが現れ、多少なりとも作品のリズムを感じることができた。さらにリチャードに殺された亡霊たちは「この世に思いを立って死ね」という4拍のリズムで歌い、ミュージカル仕立ての演出もある。一方でゾッとするような金属音を効果的に使うことによってリズムを断ち切り、ストーリーが流れてしまうことを抑えていた。 

 いきなりのミュージカルシーン、登場人物の不在、残酷な殺人シーン、ほぼオールメールキャスト、結末の違いといったこの異彩を放つ演出は原作を知らない人はもちろん、原作を読んでいたとしても迷子にさせられ、道化リチャードに踊らされているかのようである。 

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