『リチャード三世』劇評 黒田藍子
2017年10月18日から、ウィリアム・シェイクスピアの史劇作品、『リチャード三世』が東京芸術劇場・プレイハウスで上演中である。ルーマニアの巨匠シルヴィウ・プルカレーテが演出を手掛け、佐々木蔵之介が主演を務める話題作だ。『リチャード三世』の舞台は15世紀のイングランド。ランカスター家とヨーク家の王位を巡る<薔薇戦争>が続く中、王位簒奪の野望を抱くリチャードは、忠臣と共に次々と政敵を葬り去っていく。その果てにリチャードはついに王位を手にするが……。
重い金属同士が強く擦りあわされるような轟音と共に幕が上がると、天井の高い舞台は重苦しい緑がかった照明で満たされていた。激しいリズムが鳴り響き、その中で踊り跳ね回る人々、喧騒と狂乱の中、道化の仮装をしたリチャード―彼は自身をいびつで未完成、半出来のままこの世に生まれたという―は「この巧言令色の御時世を泳いで回る好き者にはおれはなれんのだからして、おれは決めた。悪党になる。」と誓う。佐々木が演じるリチャードが舞台中を動きまわる姿はまるで「死神」、常に不気味で不穏なオーラをまとっている。このリチャード、敵も味方も肉親でさえも一切の躊躇いなく殺す「残虐非道」な男である。王位を狙う中で、周りの人間への疑心暗鬼が加速するとともに、その冷酷さも増していく。それだからこそ終盤でのリチャードの「絶望だ。愛してくれる者は一人もいない。」という言葉には一瞬耳を疑うと同時に、ひどく納得せざるを得なかった。周りを突き放したような彼の独善的な凶行は、愛されない絶望感と強烈なコントラストをなしていたのだ。残忍さと孤独ゆえの繊細さを併せ持つリチャードはコロリコロリと様々な顔を見せる。子供の機嫌をとるために、彼らを背中に乗せ床を四つん這いしたかと思えば、執着し続けた王位のシンボル―王座と艶めかしくまぐわうように、その上で息も絶え絶えに悶える……時にチャーミング、時にエロチックで目を離すことができない。
プルカレーテが構築した『リチャード三世』の世界。五感に迫ってくるような暴力的なまでのグロテスクさが押し出されるが、そこに垣間見えるポップな要素がスパイスとして効果的に機能している。殺し屋たちは精肉店員に扮し、政敵たちはビニール袋を被せられてあの世に送られ、そして亡霊たちによる悪夢のミュージカル……儚くも美しく、残酷なのにユーモラス、まさに「プルカレーテのリチャード三世」である。
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