『リチャード三世』劇評 那須野綾音

この舞台は、日本の政治裏を観ているようであった。第三者は劇化したその姿を前に、距離を感じる反面、見てはいけないものを覗いた興奮を持つ。 


席に着くと、不安が過った。 シェイクスピアは偉大な詩人であるからこそ、脚本を日本語訳するのはなかなか難しい。訳されたものは綺麗な言葉に気を取られ、リズムを崩されることが多い。その為、言葉が観客の内に入りにくくなることを何度か経験した。 そして演出家のシルヴィウ・プルカレーテと佐々木蔵之介を代表とする日本の役者たちはどう来るか予想がつかない。 


あ、始まった。というタイミングで、作品に「洒落くせえ、黙って観てろ!」と怒鳴られたようだった。耳にはサックス音、目には大きな照明に群がり踊る男たちが入る。少し離れたところに召し使いがいることによって、現実味があり空間に惹かれた。すると佐々木蔵之介演じるグロスタ公リチャードが喋る。私が経験してきた緩いシェイクスピアとは離れていた。既に曲に乗っており、文章を区切って話す為、台詞に嫌悪感が見当たらない。驚いた間に、彼の欲望に塗れた声が包み込む。それは気味悪い宴(作品)の乾杯の音頭である。 


プログラムされたように見やすい演出は、大道具を一つ一つ印象付かせる。特に、電車又はエレベーターのような、ドア付きの箱が面白かった。休憩後、トップに出てくる大道具であり、奥には傘の先が見える。世界は歪み、大人数を見せなくても圧を想像させられる。この道具の大きな見せ場はミュージカルのシーンだ。死者が棺桶にも見える箱から出てきて、リチャードを弄ぶ。私は突然始まったこのミュージカルに「?!?!?!…寺山修司かッ!!」とショートしかけた。危ない。 しかし、そこから日本が持つ空気感(優柔不断、シャイ、従順等の曖昧な何かしら)を感じられなかった。プルカレーテの演出は日本でやるから斬新と捉えられるのかと疑問を持った。


この作品の一番の遊び(皮肉)はやはり、ビニール袋に包まれ、王冠を手にする場面である。人が作った物に身動き取れなくなる様が見せしめでありつつ、私の脳内に仮想のNEWSが流れさせた。盲目になった国民の代表、国民たち。向かう先は身動きが取れない恐怖の中。何が本当の幸せなのだろう。自分は音楽の波に乗せられながら、いつの間にか予想図の世界に打ち上げられていた。  

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