『リチャード三世』劇評 成瀬天音
この舞台はプルカレーテが初めて日本人キャストを演出するということで話題となった。『リチャード三世』ではグロスター公リチャード(後のリチャード三世)が、権謀術数の末王位を手にするも、亡霊に呪われ散るさまが描かれる。歴史劇であるこの作品が広く長く人々を魅了するのは、狂気や欲望といった誰しもが秘める心の闇を包摂するからだろう。そんな戯曲自体の深さに、プルカレーテ演出は更なる奥行きを生み出した。始まりから衝撃的で、俳優陣が群衆としてサックスの音色に体を揺らすさまは、古典演劇というよりも、現代芸術の難解さ、大胆さを感じさせた。無機質で、不気味で、どこか滑稽……この舞台全体で醸し出される全てを一瞬で語る。また、灰色、茶色、青緑などに色彩が限られた舞台上だからこそ、キャラクターの感情が色濃く映えているように思えた。そんな世界観で物語が進むから、終盤の亡霊たちがリチャードを呪う場面で差す色とりどりの光はより忌まわしく輝く。
戯曲の読破に苦戦した私にも本作が理解しやすかったのは、大胆なカットと巧妙なアンサンブルの配役によるものだろう。特に、原作においてリチャードと対をなすヒーローというべきリッチモンドの不在は、時代の変遷よりもリチャード自身に焦点を当てるとき、実に効果的だった。アンサンブルについても、例えばクラレンスを訪ねる殺し屋をリチャードの腹心たるケイツビーらと同じ役者が演じるので、「リチャードに従う」という役の共通点により状況理解が容易くなる。第一幕第一場にて談笑の後にリチャードの方へとクラレンスを押し出す俳優が兄・エドワード四世役であったことなども興味深い演出だ。原作では台詞を一つしか持たない代書人も、本作では様々な場面にただ「居る」印象的な存在だ。“Shadow of Shakespeare”と役者自身が形容したように、革新的に上演される本作に、シェイクスピアの影を落とす、つまり舞台と戯曲、今と当時、我々とシェイクスピアを繋ぐ糸として作用したように見えた。
奥深くも分かり易く、不気味でありながら美しい。本作は、イギリスの古典作品をルーマニア人と日本人によって作り上げる稀有さ、予想されうる独創性よりむしろ、国や時代を超えて、演劇が様々な人々の思いの重なりで生まれる芸術であること、伝統の中にありながら自由にひらけていること、一つの戯曲が無限の可能性を秘めていることを体現している。
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